思ったこと
中華街での占いは、あと3日
雨の日も風の日も中華街で占いをやってきましたが、
それもあと3日で終わりです。
すでにご案内しましたように、9月1日より新宿のお店へ移ります。
華陽園のスタッフさんも、いつも一番前に座っていた私がいなくなるのは、
寂しいと言っています。
ランチでよく行っていた隣りの海南飯店のママにも辞めることを伝えたら、
いつもはとっても明るくて面白い人なのに、「寂しいなぁー」
と本当に寂しそうに言うので、胸が痛みました。
この数ヶ月間では、裏通りのArt Baboo 146のお店もお気に入りでした。
今思えば、まだこのお店のことを知らなかった1月に、
私はこのお店の夢を見ているんですね。
夢の中で、次のバスが来るまでの間、開放的なカフェで待っていたのでした。
なので、このお店に出会ったということは、転機がすぐそこまで来ている
ということなんだろうなぁーという気はしていました。
ともあれ、4年間にわたり中華街でお世話になった皆さま、
本当にありがとうございました!
このところブログを見て、中華街のお店を辞めることを知ったお客様方が
いらして下さっていて、本当に感謝しています。
新宿でも頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。
台湾との絆
3月8日に行われたWBC、日本vs台湾の試合は、
延長戦の末に日本が台湾を4-3で勝利しましたね。
日本にも勝ってほしいけど、台湾も応援したい気持ちでした。
これは、以前、中華街で配ってた台湾の国旗
台湾と言えば、東日本大震災の義援金は、
各国最多の200億円突破したとのことで、世界一の親日国
であることを、改めて知らしめましたね。
ところが、日本は各国の主要新聞に感謝広告を掲載したのに、
台湾は対象外としたのです。
それに対して批判の声が上がり、民間有志が募金で
台湾の新聞に感謝広告を掲載したのだとか。
CMも作成し、テレビで放映されたのだそうです。
すると今度は、台湾教科書に日本の感謝広告が
掲載されることになったようです。
WBC台湾戦の試合会場では、日本人が台湾に感謝の
意を伝えるプラカードを持って、応援に行きました。
その様子は、台湾でも紹介されています。
→ こちら
そして試合が終わった後、台湾も、自国の国旗に
「日本、おめでとう」と書いて祝福してくれたのです。
→ こちら
とってもうれしいですね。
ありがとう、台湾
歴史の学び方
今日、電車の中で閃いたのですが、
歴史の勉強って学校では、過去から順に、時系列に
学んでいきますよね。
でも、それではあまり面白くないかも、と思いました。
私が思うには、まず現代のことから学べばいいと思います。
今の社会のしくみ、文化、国際交流など。
そこから、なぜそのようになったのかということに
頭を巡らせながら、歴史を探っていけばいいのです。
現代の世相を見ながら、いろんな疑問が出てくると思います。
日本は、どうして民主主義になったのか。
どうして、中国や韓国は現在、他国に多大な援助を行っている
平和主義の日本に対して、反日感情を抱くのか。
中国や韓国が日本に対して主張する「正しい歴史認識」が、
本当に正しいと言えるのか。
日本も、被害者ではなかったか。
日本は、なぜ大国に挑まなければなかったのか。
今、私はそんなことを考えています。
神々の黄昏
先日、METライブビューイングのリングチクルスを観に行った時、
「ジークフリート」が終わって、「神々の黄昏」が始まる前に、
食事のために外に出たんですが、東劇に戻る時に撮った写真です。
この空を見上げた時、(神々の黄昏だなぁー)と
なんとなく感じました。
ヴォータンを長とする神々の世界が、今の世界の特権階級の
人々の世界だとしたら…。
今のシステムは、いずれ崩壊する時が来るんだろう。
トネリコの木から作られたヴォータンの槍には、
ルーン文字で神聖なる契約の文言が刻まれ、その契約によって
ヴォータンは世界を治めることができたのです。
しかし、その槍は、恐れを知らぬ人間のジークフリートが鍛えた
ノートゥングという剣によって打ち砕かれました。
もし、あのラインの黄金がウランだとしたら…。
ウラン(黄金)から生み出された原子力(指環)を手にした者は
いずれ滅びて、放射能(指環の呪い)は自然界の手に委ねられ、
何百万年とか何千万年という長い時を経て、
やっとその力を無効化することができるんだろう。
愛を断念した者だけが鍛え上げることのできる指環は、
愛のため自己犠牲の道を選んで火の中に身を投じた
ブリュンヒルデによって、ラインの娘たちに返されました。
ラインの川の流れだけが、指環の呪いを解くことができるのです。
そんなことを、いろいろと考えました。
今年の出来事
年末年始の華陽園での占いのお仕事は超多忙のため、
ゆっくり今年のことを振り返る余裕がないのですが、
そう言えば、今年の3月11日の地震の時の写真、
ブログにアップしていないものがあったので、
記録のためにアップしておきます。
こちらは、地震当日、中華街から横浜スタジアムに
避難していた時の写真。
▼2011年3月11日15時53分
このスタジアムのモニターを通して、東北沿岸部に押し寄せる
津波を見た時は、茫然とするしかありませんでした。
余震が続いて、本当に怖かった。
こちらは、地震後の中華街。
いつもは、とても賑わっている中華街が見る影もなく、
どこもかしこも店が閉まっています。
▼2011年3月11日16時49分
▼2011年3月11日16時56分
そして、地震から1週間後の中華街。
▼2011年3月18日17時53分
中国人のシェフや店員が中国へ帰ってしまい、
営業できないお店が多かったです。
かなり寂しい中華街の様子でした。
普段からは考えられないです。
そして原発事故を通して、私たちはこれまでの原子力行政の
管理の甘さを知ることになるのです。
本当は書きたいことは色々あるんですが、
すみません、もう眠くなってしまいました。
おやすみなさい。