エンターテイメント

指環の世界と階級社会

先日観たMETライブビューイングのワーグナー〈リング・チクルス〉のあらすじが、こちら にありますが、その中にこのようにあります。

「神は最初から万能でもなんでもない。むしろ主神ヴォータンこそが不自由で束縛されており、愚かな存在として描かれる。天空の城ヴァルハラには神々が住み、地上には人間の英雄が誕生し、大力無双の巨人族がいて、地下世界には強欲な小人族がいる。権力への欲望にとりつかれた者たちが次々と呪われた指環に魅了され、滅びの道を歩む」

主神ヴォータンが、いろんな災いを招いていると言っていいくらいで、神というわりには、とても人間くさいんですよね。

〈リング・チクルス〉人物相関図は、こちら

「ラインの黄金」では、ラインの川底の黄金を守るラインの娘たちから、愛を拒絶された地下のニーベルング小人族のアルベルヒが黄金を強奪します。そして、愛を捨てた者だけが鍛え上げることができるという世界を支配できる指環を作り出すのです。

一方、ヴォータンは、ヴァルハラ城の建設を依頼した巨人兄弟に報酬として女神フライアを与えることを約束しており、妻のフリッカはフライアを助けてくれるよう懇願します。火の神ローゲの入れ知恵で、ヴォータンはアルベリヒから(フライアの身代金のために)黄金と指環を奪うのですが、アルベルヒは指環の持ち主が破滅するよう呪いをかけるのです。

ヴォータンも権力を得ることには執着があるため、指環をラインの娘に返すことはせず、報酬を求める巨人にも渡そうとしないのですが、女神エルダの不吉な予言を聞き、なんとか手放します。指環を得た巨人兄弟は黄金を争い、片方がもう片方を殺害。持ち主を破滅に向かわせる指環の力を目の当たりにするのでした。しかし、それ以後もヴォータンは指環の存在、そしてエルダが予言した神々の暗い行く末を怖れることになるのです。

ところで、音楽雑誌「モーストリー・クラシック」2012年9月号の中の「『ニーベルングの指環』が今も輝きを放つ理由」という喜多尾道冬氏の記事に、とても共感しました。添えられたアッサー・ラーカムのイラストは、ファンタジーの世界ですが、その記事の内容は現代と指環の世界がオーバーラップすることが書かれていました。

~ 以下、記事の抜粋 ~

「ワーグナーの《指環》の世界は①ヴォータンら神々の住む天上界、②人間の住む地上界、③小人の住む地下界の3層からなる。これはまさに階級社会である。ヴォータンらは贅沢三昧の暮らしをしながら、地上界に手を出して人間の女と通じ、地下界の小人たちをたぶらかしてその富を奪いとる。この構図は階級社会のヨーローッパ、またわが国の現状にもあてはまらないだろうか。


つまり天上界にあたる政・官・財は癒着というかクラブ的な結束で富と権力を内輪でまわし合う。その富といえば地下界の小人たちが働く以外に手をもたず身を粉にして築き上げたもの、それを天上界は口先ひとつでかすめとる」


「3つの階級の区分けは永遠不変ではない。《神々の黄昏》で天上界の豪華な城が焼け落ち、地上もラインの洪水に呑まれ、一切が瓦解に帰してカウンター・ゼロのふり出しにもどる。ほんのちょっとした油断のせいで勝敗はスゴロクやオセロのように入れ替わる」


「わたしたちはワーグナーの《指環》をフィルターとして現実の世界をおぼろげになぞり、その「響き」の力に導かれて天上界、地上界、地下界を経めぐり、ヴォータンやジークフリート、ブリュンヒルデらに感情移入しながら世界の始原と終末、没落と再生、破滅と浄化のめくるめく交代劇を体験する」

~ 以上 ~

私が「ラインの黄金」と「ワルキューレ」を観ながら感じたのは、主神ヴォータンの身勝手さ、愚かさ、傲慢さ。そして、その絶対的な力に従わざるをえない他の神や地上界や地下界の者たちという構図と、その理不尽さ。しかし、そのヴォータンさえ、妻の言うことに逆らうことができず、自分の運命をどうすることもできない。本当に神なの?という感じですが、この天上界の神を、神ではなく、人間界における一部の特権階級の人々として見れば、あっさり納得がいきます。《指環》の世界には、リアルな人間社会の構図が描き出されているんですね。

2012-08-17 | Posted in エンターテイメントNo Comments »